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荒茂毘沙門堂(仁王門)と木造毘沙門天立像

更新日:2008年10月8日

荒茂毘沙門堂の写真このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白話」を再掲載したものです。

あさぎり町深田北、荒茂地区の広域農道(フルーティーロード)の大カーブから荒茂集落に向かってコンクリート舗装の上り坂を少し歩くと「荒茂毘沙門堂」があります。このお堂は、かつては荒茂山勝福寺というお寺の「仁王門」でした。勝福寺というお寺は、古い歴史と由緒があったお寺でしたが、残念ながら明治時代のはじめに廃寺となり、今では仏像と古塔碑の遺跡を残しています。

この仁王門は、お寺の入口で、勝福寺の伽藍配置からすると南門にあたり、今も像高190センチメートル、赤に彩色され、勇猛、威嚇を表現した二体の大きな仁王像がここに安置されお寺を守護しています。明治時代以前までは、この場所から荒茂集落奥の勝福寺金堂へ行くには、この仁王門を通っていました。しかし、明治3年(1870)、神仏分離令により古刹で名を馳せた勝福寺も廃寺となりました。明治22年、無住となっていた金堂は傷んで解体されたと思われます。その時、金堂のご本尊木造毘沙門天像などの仏像をこの仁王門に移して毘沙門堂にと改造しました。昭和55年8月頃までは茅葺屋根でしたが、今ではトタン屋根となっています。
 さて、勝福寺は、伝説では平安時代末期、平清盛の長男重盛の菩提のために建てられたと伝えています。しかし、この仁王門に残る仏像には平安時代中期頃(10〜11世紀頃)の仏像もあることから、勝福寺の創建時期は未だにどの時期の創建か謎となっています。
 話は仁王門に戻りましょう。この建物は、今からおよそ700年前の鎌倉時代の弘安年間、円鑁(えんばん)という僧が、勝福寺が衰退していたのを真言宗の寺院として再び復興させました。その時、この建物を新たに新築したようです。また、これとともに二体の仁王像も彫像されたのでしょう。以来、仁王門は幾度となく修理され、今からおよそ260年前の江戸時代中期にも大修理されています。昭和56年深田村有形文化財となり、現在、あさぎり町有形文化財(建造物)に指定しています。


木造毘沙門天立像の写真仁王門を丁寧に観察しますと、建物の両側に仁王像を安置する部屋が残り、仁王像を安置しています。門であったので、建物の中央は通行口でした。しかし、現在は須弥壇が築かれ壁板でふさぎ、金堂から移した本尊毘沙門天を含め6体の仏像を安置しています。また、この部屋の天井に近い壁には、「ムカデ」を描いた壁板が4枚はめ込まれています。これがかつて通行口の天井画であったようです。ムカデの絵は、本尊の頭上の後壁をよく眼をこらしてみると見えます。このムカデは毘沙門天と関わりがある虫で「毘沙門天の使い」といいます。仏像の前面部は床板を張り、参拝の場として改造されています。しかし、改造はされていますが、元の仁王門に復元することも可能です。さらに、柱の面の形状や各部材の意匠は、室町時代の建築様式(禅宗様または唐様ともいう)を残しています。特に、仁王門がある寺院は球磨郡では珍しく、球磨郡唯一の古さと歴史を持ち、二体の木造仁王立像は、熊本県で最も古い仁王像なのです。
 ちなみに、安置されている8体の仏像は、昭和37年8月に県指定重要文化財(彫刻)に指定されています。その詳細は、本尊を含めた木造毘沙門天立像3体、名前がわからない四天王像のひとつ木造天部形立像1体、菩薩の形をもつ木造菩薩形立像1体、木造吉祥天立像1体、木造仁王立像2体の計8体があります。本尊の木造毘沙門天立像は、高さ250センチメートルを超える大きな仏像で県下でも最大級の木造毘沙門天です。

この本尊の木造毘沙門天立像ほか2体の仏像を、平成16年11月、熊本県立美術館の第24回熊本の美術展「天部の美、ご利益と護のほとけたち」に出品しました。そして、まもなくして、美術館の担当者から勝福寺の謎を追う研究者にとっては世の中がひっくり返るくらいの大発見の知らせが入りました。 (つづく) 

あさぎり面白ばなし7 あさぎり広報No.35
(文責:教育委員会社会教育班 北川賢次郎)

 


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