荒茂毘沙門堂(仁王門)と毘沙門天立像(その2)
このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白ばなし」を再掲載したものです。
「熊本県立美術館に展示する荒茂の木造毘沙門天立像の胎内に、墨で書かれたたくさんの文字を発見しました! 今からその内容をファックスします。」と熊本県立美術館学芸員の有木芳隆氏は歓喜した声であさぎり町教育委員会に一報を下さいました。それから、ファックスに書かれていた文字を見た瞬間、「古刹勝福寺を草創したのは誰なのか」という謎が判明した瞬間でした。当時までは、豪族の須恵氏か平川氏かどちらかだろうと考えていたのですが、これといった決め手がなかったのです。しかし、これで、勝福寺を草創したのは「須恵氏」と知ることができ、歓喜したのはいうまでもありませんでした。
さて、どういうことで墨書銘発見に至ったかというと、県立美術館での仏像の展示作業のおり、仏像の体内に、もしや何か書かれてはいないかと有木氏たちが胃カメラと同じような機器のファイバースコープを入れてみたところ、偶然にもそのテレビ画像に墨書銘が映し出されたとのことでした。そして、平安時代の年号「久寿三年」の文字がはっきりと浮かび上がったそうです。「造った年号がわかった!」 製造年がわかる文化財はその価値を一層高めることになるのです。
また、さらに重要なこともありました。平安時代の球磨郡のようすを記録する古文書はほとんど残っていません。もし、残っているならば、それは球磨郡の歴史にとっては大変貴重な財産となるのです。球磨郡の平安時代を探るものとしては、鎌倉時代の初めに作られた鎌倉幕府の土地台帳というべき『建久8年肥後国球磨郡図田帳』という古文書があります。それには、藤原家基(須恵小太郎)という人がいたことがわかっていて、その人は球磨郡を治めていた豪族のひとり須恵氏の出身で、政所(まんどころ)という財政と裁判官役を受け持ち、また、鎌倉幕府管轄領と公田(貴族や役人などに与えた田以外の田)を領していました
今回、発見された墨書銘には、木造毘沙門天立像を、いつ、だれが、何の目的で作ったのかが判明しました。その内容は、「当郷の領主の藤原家永が、藤原氏の災いをなくし、命を延ばし、福寿を増長することを目的とし、勧進にあたった僧は源与で、仏師は僧の経助で、この地にて成就し、多治治助ならびに藤原氏の一家の平安を願って久寿三年(1156年)四月二日に安置した」ということが書かれています。久寿3年の年は保元元年にあたり、あの源平モノの大河ドラマなどではよく耳にする「保元の乱」という事件がおこった年です。「藤原家永」という人は、先ほど述べた『図田帳』の「藤原家基」の一族に強い関わりがあると思われます。
さらに、仏師名と勧進僧名や平安時代前期に皇室と関わりがある「多治氏」の名前もあることから、球磨郡の平安時代をさらに問題提起をしています。平安時代の仏像の体内銘発見は日本全国でもおよそ数十年ぶりの快挙といい、また、今年は、製造されて850年を数える良き年であり、まさに、「荒茂の毘沙門天さま」は高さも価値も第一級の資料となったのでした。
あさぎり面白ばなし8 あさぎり広報No.36より
(文責:教育委員会社会教育班 北川賢次郎)
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