千手の局(つぼね)の伝説(その2)
このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白ばなし」を再掲載したものです。
今回も、あさぎり町深田東、内山地区にある内山観音堂にまつわる「千手の局(つぼね)の伝説のつづきです。
「千手の局」の母というのはどういう人でしょうか。それは、室町時代に下相良氏に滅ぼされた上相良氏(多良木)の分家の肥知岡(ひぢおか)氏の出といわれます。肥知岡氏は上相良氏が滅びたあと薩摩に逃れて土着したらしく、そしてその氏の娘が島津家家老本田丹波守親泰(たんばのかみちかやす)という人に嫁いで娘を産んだらしいのです。これが「千手の局」というわけですが、その親泰が戦死したことにより、母と娘は相良領の縁家で過ごしたものと考えられます。おそらく、母の故郷が深田の内山であったのでしょう。
実のところ、「千手の局」(島津家久の母)は、薩摩の当地では「橘姫」「少納言」の尊称でよばれていて、没年はわかりませんが、鹿児島県伊集院町の破鞋庵(はけあん)跡というところに「貴久後室花室清忻大姉(たかひさのこうしつのかしつせいきんだいし)」という人の墓が残っており、これが地元では肥知岡氏女(うじめ)の墓といわれています。
さて、戦国大名の島津貴久公の四男家久を産んだとされる「千手の局」ですが、その家久については、鹿児島県の串木野(現串木野市)の地頭であり、やがて宮崎の佐土原城主となりました。たいへん武勇にすぐれ、あの有名な島原半島での有馬晴信と島津家久連合軍と龍造寺隆信軍が戦った「沖田畷の戦い」では、敵の大将龍造寺隆信を討ち取るという大功績もありましたが、薩摩唯一の軍師であり策謀に長けていることから、豊臣秀吉の島津征伐の時に毒殺されたといいます。このあと、「千手の局」は育った故郷の内山に帰って生涯を閉じたと伝えます。
家久公を亡くした家久の息子の豊久は、関が原の戦いでの有名な「島津潰走」のとき、領主島津義弘公の身代わりとなって壮絶な戦死を遂げました。その忠死にたいして、義弘公はその子孫に永吉郷(鹿児島県吹上町)を与え、永吉島津家を再興させたといいます。また、家久公の娘は、相良家の重臣相良清兵衛頼兄の息子の相良頼安(よりやす)と再婚し相良頼章(よりあき)を産んだといいます。その頼章は薩摩の加治木に移り住み、島津義弘により元服し、相良長毎の次女・於(お)萬(まん)と結婚しています。
「千手の局」の遺品として内山観音堂近くの村山家の敷地に祀ってある千手観音は、千手の局が念じた持仏であると伝えています。また、近年まで毎年の正月には島津家から紅白の餅が届けられていたと伝えます。
あさぎり面白ばなし4 広報あさぎりNo32より
(文責:教育委員会社会教育班 北川)
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