平景清息女の伝説(その1)
このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白話」を再掲載したものです。
今回と次回は、あさぎり町岡原北小字切旗にある「平景清息女の墓」、簡単にいえば「平景清のむすめさんの墓」の伝説について紹介します。その前に、むすめの父である「平景清」について少し説明しましょう。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」とは、あの有名な『平家物語』のくだりですが、この物語の「屋島の戦い」の場面に、その「平景清」という人物の武勇が描かれています。
時は今からおよそ820年前の平安時代末期、平景清は平家方の侍大将でした。怪力の持ち主で豪傑であったと伝えます。若い時分、早合点から伯父の大日坊を殺し「悪七兵衛(あくしちびようえ)」とあだなされてもいました。彼は、源氏に敗れた平家一門とともに都落ちしますが、屋島の戦いでは、源氏方の美尾谷十郎と組み戦い、冑の錣(しころ)を断つ武勇がありました。壇ノ浦での平家滅亡後は落ち延びて、源頼朝に復讐をもくろんだといいますが、源氏方に捕らえられて、断食して亡くなったとか、または両目をくりぬかれ日向国(宮崎県)に流されたとか、日向国で役人として仕えたとか伝えていますがはっきりとしません。しかし、宮崎市には目の神様として彼を祀る「生目神社」があり、鹿児島県曽於郡大隅町には彼の墓があり、落ち行く先々でいろいろな伝説を残している結構有名な人物です。ちなみに、あさぎり町免田永才地区には、平景清の母とされる「虎御前」の墓があり、平景清ゆかりの地となっていて、これも目の神様といわれています。
さて、本題の「平景清のむすめの墓」は、あさぎり町岡原北の宮原圭志さんのお宅の北側にお堂があり、その中に石碑が祀られています。碑には刻銘があり、その内容を簡単にいえば、「伝え聞く景清将の息女墓、このところなり、享保七年壬寅三月十二日、那須甚七」とかかれています。これは、江戸時代の享保七年(1722年)の壬寅の年に、この村の庄屋であった那須甚七が、景清のむすめの墓と聞き伝えていることから建立したものです。これも目の神様として今でも崇拝されています。
江戸時代、あの近松門左衛門が書いた浄瑠璃『出世景清』、歌舞伎十八番『景清』や人形浄瑠璃では『嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき) 』では、平景清とそのむすめを主人公として描かれています。その「出世景清」の初演が、貞享二年(1685年)といいますから、庄屋の那須甚七は、教養として浄瑠璃芝居のくだりを知っていて、岡原の地に景清のむすめの墓があることから、彼女を偲んで建てたものでしょう。
あさぎり面白ばなし5 あさぎり広報No33より
(文責:教育委員会社会教育班 北川)
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