免田式土器のこと(その1)
このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白ばなし」を再掲載したものです。
今から1800年前のむかし、あの邪馬台国の女王卑弥呼(ヒミコ)が活躍していた時代です。その頃は、弥生時代の後期にあたりますが、あさぎり町では人々がムラをつくって生活していました。それを証拠だてるものとして、竪穴式住居・お墓などの遺構や土器・石器・鉄器・装飾品等生活の道具を出土したことがあげられます。中でも、大正7年(1918年)、免田西下乙字本目の源ヶ屋敷(げんがやしき)と呼ばれている畑を田んぼにする地下げ工事中に多くの土器が出土したそうです。これがみなさんもご存知の「免田式土器」で、この時が最初の発見です。
土器の形は、胴部がそろばん玉の形のようになっていて、やや開き気味に上に長くのびた円筒状の首 (長頸) をもち、胴部の上半面には、同心円紋を半分に切った紋様(重弧文)やノコギリの歯のような形状の鋸歯紋(三角紋)、短い斜め線の綾杉紋や平行紋を描いています。この土器は、弥生時代に作られたもの中では一番気品があるといわれ、お墓などにお供えされた特別な土器といいます。
免田式土器は、昭和5年(1930年)に発刊された『世界美術全集第四巻(平凡社)』で紹介されて学会に知られるようになりました。それから後、免田東字吉井の市房隠遺跡、下益城郡城南町や宮崎県小林市でも同じような土器の出土が報告され、昭和12年(1937年)には、前述の本目源ヶ屋敷から東へ200メートルの位置でも多くの土器が出土したといいます。
そこで、郷土が誇る免田出身の考古学者、故乙益重隆氏(元國學院大学文学部教授・考古学)と同じく上出身の故高田素次氏(考古学・郷土研究家・歌人)が緊急調査して学会に報告しました。その2年後の昭和14年(1939年)、京都帝国大学の小林行雄氏(考古学・博士)が『弥生式土器聚成図録』の解説論文を執筆していたとき、乙益氏に対して、「重弧文の文様を描く土器は、弥生文化の前期にもあり、中には縄文式土器にも描かれている。ついては、従来重弧文土器とよばれているももの名称を代えてはいかがだろう。それについては、他の土器様式名と同じように遺跡名をつけたがよいと思うが・・・」と相談されました。乙益氏は、それまで重弧文土器としか呼んでいなかった土器に対して、思案した末、「免田式と名付けてはいかがでしょうか」と答えたといいます。
というわけで、乙益氏が免田式土器の名付け親となったわけですが、乙益氏は、遺跡名ではなくて、独立町村名の「免田」を名付けられました。それは郷里への思いからなのでしょうか。または、一番気品がある弥生土器を世に出した誇りある町の名を広めたかったのでしょうか。
さて、免田式土器の出土するところは、佐賀平野や沖縄まで九州全域に及びますが、その分布の中心とするところは、球磨川流域をはじめ、熊本平野南部にもあることがわかってきました。 (つづく)
あさぎりおもしろ話13 あさぎり広報No.41
文責 あさぎり町教育委員会 社会教育班 北川賢次郎
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