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免田式土器のこと(その2)

更新日:2008年10月8日

吉備系の特徴を持った免田式土器の写真このお話は、広報あさぎりに連載中の「あさぎり面白ばなし」を再掲載したものです。

免田式土器が作られた時代は、弥生時代後期から古墳時代初め頃といいます。その土器を使っていた人達はどういう人達でしょうか。一説に、球磨郡には「クマソ」と呼ばれる原住民が住んでいたといい、これは神代を物語る『古事記』や『日本書紀』にもでてくるお話です。『古事記』の国生みの下りには、イザナミノミコトとイザナギノミコトが淡路島、四国、壱岐島のあと筑紫島(九州島)を生みました。筑紫島には四つの顔(国)があり、筑紫国を白日別(しらひわけ)、豊国(豊前、豊後)は豊日別(とよひわけ)、肥国(肥前、肥後)は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)、熊曽国(肥後南部から日向、大隈、薩摩)は建日別(たてひわけ)といいました。このように熊曽国(クマソ国)は、南九州一帯に勢力圏があったものといわれています。その「クマソ」は、大和朝廷から「まつろわぬ民」として幾度となく征伐され、服従を強いられた人々です。その征伐伝説として景行天皇親征や頭領熊襲タケル(川上タケル)を滅ぼしたヤマトタケル尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説は有名です。


瀬戸内系の特徴を持った免田式土器の写真さて、免田式土器の謎について幾つかお話しましょう。1首が長い長頚壷という特異な形はどこから来たのでしょうか。ある研究家によると鹿児島市の山の口遺跡で出土した重弧文がない弥生時代中期後半頃の土器が祖形ではないかとしています。免田式土器の形のルーツは鹿児島市からでしょうか。2重弧紋様はどんな意味があるのでしょうか。ある研究家は龍を意味するものではないかと考えておられました。3どうして、重弧文様から三角文様(鋸歯紋)に代わり、古墳時代には造られなくなったのでしょうか。一説に従来の重弧文様はクマソの特別な文様であり、古墳時代になると大和朝廷の支配となり重弧文様は使えなくなり、一般の装飾古墳にあるような三角形の鋸歯紋に変っていたのかも知れません。そして、信仰儀礼が変化していき、クマソ民族の特別な祭祀に使われていたのが作れなくなったのでしょうか。4瀬戸内系(瀬戸内海系)、吉備系(吉備国・岡山県など)の特徴的な形をもった土器が作られていますがそれは何を物語るのでしょうか。記紀には「吉備の臣の祖鴨別(おやかものわけ)を遣わして、熊襲国を撃たしむ」とあり、つまり、吉備の王は大和勢力と同盟し、王の家臣である祖鴨別(おやかものわけ)を遣わしてクマソ国を撃つことにした記述です。吉備の王は大和政権と同盟し、国家統一と治世に関与したことはどうやら本当のようで、吉備国が関わりクマソ征伐後大和政権下となり、そのときに信仰儀礼の点でクマソ国と吉備国を折衷した土器が生まれたのかもしれませんし、瀬戸内系土器も同じことがいえるのではないかと思われますが、謎はまだまだ深まるばかりです。
(つづく)

あさぎり面白ばなし14 あさぎり広報No.42
文責 あさぎり町教育委員会  北川賢次郎

 


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