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清兵衛どんのはなし その1

更新日:2008年10月8日

岡原諏訪神社の写真 あさぎり町岡原南岡麓の諏訪神社は、中世の山城跡で岡本城跡といわれています。

 神社の鳥居のそばには3基の墓碑があり、その一基に「天(てん)金本(きんほん)然(ねん)居士(こじ)」と刻む墓石あります。

 このお墓こそ「清兵衛どん(せいびゃーどん)」のお墓で、平成15年8月に求麻郷土研究会によって確認されました。

 清兵衛どんは、名前を相良清兵衛頼兄(さがらせいべえよりもり)といい、父は、あの文武に秀でた名将犬童頼安(いんどうよりやす)(休矣(きゅうい))です。清兵衛どんは、相良家の家老を務め、関ヶ原の戦いでは、その智謀により相良家安泰に導きお家存続に大きな貢献をした人で、相良七百年中で奇才と豪胆とを持ち合わせた無比の人傑といわれています。

 

 寛永十三年(1636)、清兵衛どんは、歳も68歳になり高齢でもあることから、岡麓の城に自分の隠居所を造り始めました。

 家はたんなる隠居所ではなく町屋を備えたりっぱな隠居所にしようとして、人吉からは裕福な町人を集めて移住させたそうで、それにより、人吉の町家はさびれてしまったそうです。

 清兵衛どんの勢いは、藩主の相良頼寛(さがらよりひろ)公をしのぐ勢いでした。

 知行石高は1万石とも2万石とも推量されたほど豪奢を極めたと伝えます。殿様の頼寛公も手におえない状態となっていて、成敗したいと考えていました。

 しかし、何しろ徳川家康にお目見えもした人であり、また、ここ数代の藩主にも奉公を遂げた者であるから簡単にはできません。下手をするとお家取り潰しになりかねないのでした。

 しかし、頼寛公は、とうとう堪忍耐え切れず、清兵衛どんの横暴を「清兵衛私曲十三ヶ條」にしたためて幕府に訴えました。寛永十七年(1640)、幕府と頼寛公は謀略をもって清兵衛どんを江戸に召し寄せて捕らえ、同年、幕府評定所で裁判が行われました。

 その結果、清兵衛は弁明通らず津軽藩弘前(青森県弘前市)へ流罪となりました。岡麓での生活は4年間で、弘前で流刑生活16年して亡くなりました。88歳。

 犬童頼安については、水俣城攻防戦の話が有名です。天正9年(1581)薩摩軍は北上し、相良領の水俣城を攻めました。頼安は善戦し堅く城を守って降参せず篭城しました。

 島津氏の武将新納忠元(にいのただもと)は矢文に「秋風に水俣落つる木の葉かな」と書いて城中に射ました。頼安は直ちに、「寄せては沈む月の浦波」と射返しました。これが、戦場の花として後世に歌われている佳話です。(つづく)

 

(文責 あさぎり町教育委員会 北川賢次郎)


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